カテゴリー

ご予算のめやす

鮭レシピブログ

アカウント

ショッピングガイド

紅鮭物語

紅鮭物語



1)鮭を訪ねて、時は明治に遡る



まさか、今、目の前にある紅鮭が、歴史をひもとけば明治時代に端を発しているとは、思いもしませんでした。
きっかけは、当店における本紅鮭の販売終了です。(2016年)うちは鮭専門店ですから、一年中、天然の様々な種類が店に溢れています。折しも秋。全ラインナップが出揃い、店先に鮭の雄姿がズラリと並ぶ頃。ひっそりと本紅鮭が姿を消しました。

この鮭に替わる旨い紅鮭を探しているうちに、そもそも本紅を漁獲していた海域はどこなのかと考えるに至りました。紅鮭は北方、ロシア・カナダ・アラスカの、行き着く先に湖がある川を遡る鮭。日本の海域にいる鮭ではなく、日本船が北洋で漁獲した紅鮭=本紅と聞いていました。

ところでこの鮭、 最初に獲ったのはいつで、誰なのか?

築地場内の図書館「銀鱗会」を訪ねて鮭にまつわるの昔の資料を探していると、鍵のかかった本棚に、分厚い日魯漁業株式会社の社史を発見します。

日露漁業が現マルハニチロの前身だということは市場で聞いていましたが、創業は明治39年、翌年に新潟より北洋に出漁したという話は初耳です。その出漁からわずか10年にも満たない大正2年に、同社が「DAY BREAK BRAND」の鮭缶を製造します・・・。


あ…あの缶詰! 


新潟村上の鮭ミュージアム「イヨボヤ会館」に展示されていた旧き良きデザインの美しい缶詰。外貨獲得目的で遠くヨーロッパに輸出したため、英語が配されたノスタルジックな缶のラベルが、思い出されました。

 そういえば、当時から半世紀も経た私の子供の頃ですら、あけぼの印の紅鮭缶はご馳走でした。缶切りでギコギコと蓋を開けて、中に1つか2つ入っていた鮭の中骨の、箸ですくうとホロホロと崩れる感触が懐かしいです。あけぼの印は、日の出を思わせる紅白のマークが、明治生まれの祖父母の蔵に眠っていた戦争の遺品を思い起こさせ、子供心に自分が生まれる前に起きた“いろいろなたいへん”なことを想起させられました。

 さて、明治末期、北洋に向かった帆船は、どこでどんな風に鮭を獲ったのか・・・・。

2)日本船がロシアの海に繰り出すの巻



市場の図書館「銀鱗文庫」に眠っていた日露漁業の社史は分厚く、長い年月を経て茶色に変色。そこに語られていたのは、北洋漁業に従事した無数の男たちの生と死の物語でありました。その凄まじさに、私はページを繰りつつ呆然としていました。残念なことに女性が一人も出て来ない。ちょっとがっかりです。極寒の地に女は不要なのか。NHKの大河ドラマにはならないな…これでは、と思った次第。

さて話は日露漁業の創業よりもさらに昔に遡り、時は江戸時代。1750年代には、すでに南千島や南樺太に繰り出して漁をしていたようです。
明治になり、そのさらに北方に漁場を求めて野心を燃やすきっかけとなったのが、日露戦争後の明治40年に締結された日露漁業協約で、日本はロシア沿岸での操業が可能となり、いよいよ帆船でカムチャツカまで出漁するのです。

カムチャツカ・・・皆さん、どこにあるのかわかりますか?

地図上で点々と繋がる千島列島を北へ辿っていくと、大陸からヒュッと突き出て、オホーツク海を抱くように突き出た大きなカムチャツカ半島に行き着きます。



その半島のデカイこと!
ここまで、帆船で鮭を獲りに行ったとは!

その後、明治末期から大正期に、漁の規模拡大と技術の進歩が猛烈にスピードアップします。

すでに大正10年前後には帆船が汽船に替わり、定置網が設置されて大規模漁業に発展。カムチャツカには缶詰工場が建設され、もうバリバリに進出していくわけです。

ロシアも黙っていなかったはず。日本人がごっそりと魚を獲っていくもんですから、海上でも喧嘩が起きる。
「日本は、軍艦が漁船を護る形で取り囲んで、漁の安全を図ったもんよ。
波吹きすさぶロシアの海の、それはすごい光景なんだと!」…この話は、築地の鮭を扱う古老たちが大好きな物語です。多分、古老も明治生まれの親父や先代から聞いたんだと思います。




3)母船式サケマス漁業、栄華を極める



時は昭和に移ります。
カムチャツカ沿岸での日本の定置網漁に、ロシアから「おいおい」と牽制がかかるようになると、「じゃ、公海で漁をするか!」となるのは、当然の成り行きだったのでしょうか? 昭和4年頃から陸から少し離れた沖での流し網漁による、母船式のサケマス漁業がはじまります。

それは、雄大な海上のチームワークで、一船団の編成は、例えば・・・
・缶詰・塩蔵設備を持つ3,000から5,000トンの母船
・冷蔵施設を持つ1,500トンの補助母船
・運搬船
・給油船
・50から55隻の独航船:鮭を獲る船
(昭和8年 カムチャッカ半島の沖合いで操業:日露漁業社史より)



5月半ば、北洋の遅い春の訪れとともに、サケマスが群れをなして故郷カムチャツカ半島の川に戻ってくる頃…。半島の手前の公海に船団は陣取ります。母船を中心に独航船が配置され、独航船は夕方に網を下ろして朝を待ち、網を上げ母船へ。母船へ運び込まれた魚は、船内加工場で内蔵を取除き、缶詰あるいは塩鮭に。

最盛期は昭和12〜16年頃。複数の船団が操業し、2万人以上の従事者により豊漁年ともなれば1億万尾を超える漁獲数を誇ったそう。缶詰は第二次世界大戦突入前までは、欧米への輸出が多かったとのことです。

私が市場に来た当初、印象深かったのは塩鮭の木箱の「沖」「丘」の印。沖はしょっぱい、丘は塩が甘いと、丸覚え。まさに母船が沖で塩蔵した鮭が、航海を終えて帰港した時に、熟成されて旨い「沖」塩の鮭となると知ったのは、後のことです。


4)北洋サケマス漁の最盛期からどん底へ、そして蘇る



日本の北洋漁業は昭和10年台に最盛期を迎えますが、すでにその絶頂期に暗い影が忍び寄っていました。 太平洋戦争勃発。昭和17年には水産統制令により、日本水産・日露漁業・林兼商店・極洋捕鯨の水産4社が「帝国水産統制株式会社」として強制統合させられます。

翌年の昭和18年に、米英ソはテヘラン会議で相会し、ソ連の日本進攻を密約していたとのことですが、北洋の現場で働く人々はそれを知る由もありません。

昭和20年、広島への原爆投下の2日後の8月8日、ソ連は密約通りに日本に宣戦布告し一挙に満州・樺太・千島に進攻。翌日にはカムチャツカのウトカ漁場で5万缶の鮭缶を積み込んだ笠戸丸を撃沈。終戦までのわずか10日ばかりの間に、多くの操業船舶は逃げ切れずに撃沈あるいは拿捕され、死傷者の数は計り知れず、8月20日の終戦後にシベリアに抑留された多くの水産従事者もまた、刑死・病死で命を落としました。
終戦後、縁あって築地に職を得たシベリア帰りの方々も、今はもう鬼籍に入りました。現在70代の鮭屋の問屋さんは「うちの店にもいたけど、抑留については、多くは語らなかったな」とのこと。

終戦後、日本は北洋への出漁は禁じられ、その後5年を経た昭和25年講和条約が発効されて再び操業が再開されます。かつて莫大な漁獲を得ていたソ連沿岸には近づくことはできず、当初はアリューシャンで操業をスタート。その後、年毎の折衝を繰り返し、徐々に操業範囲を広げていったそうです。

築地に残る古い業界紙の綴をめくっていくと、昭和27年5月3日付けの記事に「国際関係に微妙」との見出しがあり、北洋で漁業協定に違反のないよう、慎重に操業する様がレポートされています。また、南千島付近での漁船の拿捕が年間200隻近いとも。

北洋から遠くはなれた東京の築地市場もまた、終戦後5年を経て、ようやく活気を取り戻し始めていました。昭和24年にはサケ・マス・カニ缶の統制が撤廃、昭和25年4月にすべての統制がはずされて、商売に復帰する人々が明るい笑顔を見せ始めた頃のことです。




5)戦後、北洋で起きたこと



戦後、母船は大型化し、木製の独航船は鋼鉄製に変わました。魚探やレーダーは格段に進歩し、戦前は操業不能であった濃霧のアリューシャンでの操業を可能にします。

日本の船団は勢いに乗ります。北洋に出たくとも出られなかった戦後の虚しい日々から開放され、漁師たちは喜びを胸に出漁します。抗戦やシベリア抑留で亡くなった仲間達の分も獲ろうと、万感の思いを込めて網を上げ、漁師のプライドに賭けて獲れ高を競い、日本の高度成長の担い手の一人であることを実感したに違いありません。 しかし、時代は変わります。

昭和51年、ソビエトが自国の沿岸200カイリを漁場専管水域に指定。日本にとっては圧倒的な漁獲削減に直結する200海里時代に突入します。

鮭は生まれた川に戻り、子孫を残すので、鮭にとって母川の国に圧倒的な権利があるというのが、国連海洋法の考え方です。(母川国主義)公海で操業する日本船であっても、母国へ帰ろうとする魚を根こそぎ獲ってしまうことは認められなくなりました。

毎年の交渉を重ねるにつれ、日本の漁獲量の割当は減り、漁業協力費は高騰。広大なロシアの沿岸を縁取るように広がるロシア領海から、日本船は徐々に締め出されていきました。
日本の母船式サケマス船団の最後の出漁は昭和63年です。平成になると、資源保護の観点からも公海でのサケマス漁は禁止となり、北洋漁業は日本とロシアの200海里内での操業に限定されます。そして今年平成28年から、ロシアの排他的経済水域でのサケマス流し網漁が禁止され、長年親しまれた本紅という、日本船が北洋で獲る紅鮭が消えました。

以上が、紅鮭にまつわる長い物語です。


実は昨年、ロシアの上院でサケマス流し網漁禁止の法案が可決された時に、北海道の新聞記者が訪ねて来られ、産地の事情を知りました。さらに先月、稚内を訪れた際、沖に見えそうなサハリン(樺太)の、あまりの近さに驚き、調べる中で、北洋で鮭を獲った人々の生と死、果てしない夢と挫折の歴史を知りました。

今、世界的に海洋資源は減少しており、市場で日々魚を見ていても、マグロ、ウナギ、サンマ、サバ、イカ…日本人にとってポピュラーな魚種が次々に不漁に陥っています。昔のような鷹揚な売り買いが難しく、今後は時代に応じた魚との関わり方が求めらます。

私は鮭を商う中で、産地の方々との交流を深め、食べる皆様へのより良い橋渡しをしていく所存です。もし、私どもの鮭を食べていただく機会がありましたら、このような話を思い出していただければ幸いです。



*参考資料
「日本の鮭」市川健夫著
「日魯漁業経営史 第1巻」岡本信男編 
(写真:稚内からサハリンを望む2016.9.22)